今日・5月12日は…時々ここで話に出していた兄弟猫の、兄猫(多分)の4回目の命日でした。
今日は彼の話をしたいと思います。
少し、長くなってしまうかもしれません。
彼の名前は『シーマ』といいます。
今から17年前に、弟猫と一緒にうちの家族になりました。
誇り高き雑種猫、近所のボス的存在のオス猫でした。
体はとても大きくて、全盛期で8kg近い体重がありました。それも、肥満ではなくて。
名前の由来は、縞模様だから…ではなくて、高級車から。
両親がつけました。すごい見栄っ張りな名前(笑
弟猫とは仲が悪く、シーマは家の中と庭側、弟猫は家の道路側がそれぞれの縄張りでした。
彼はFeLV、FIV共に陽性でした。
去勢もしてなくて、外に自由に出て行って、近所の猫とケンカし放題だったから。
まだ、猫も犬も外飼いが当たり前の時代でした。
シーマはドアを自分で開けられる猫でした。
引き戸ではなくて、ドアノブがついているドアを開けるんです。
こんな風に。
引き戸なら、みん様も弟猫も開けられました。
でも、ドアノブの扉を開けられるのはシーマだけ。
つまり彼は、居間へ自由に出入りできたのです。
もちろん、閉める事はできませんが(笑
なんか寒いなぁ…と思って目をやると、必ず彼がドアを開けっ放しにしていました。
今でも我が家の居間のドアは、彼の爪あとが無数に残っています。
夜中に彼が勝手に開けないように、ドアの上の方には鍵までついています。
シーマが7歳のとき、弟猫が死にました。
オス猫同士だったから、ケンカばっかりしていて。
それでも、一緒に生まれた兄弟だったから、どっちかが追い出されるなんて事はなくて。
何だかんだ言って、寒い日は一緒のダンボールでくっついて寝てたりして。
そんな弟猫が、死んでしまったとき。
若い時と全く変わらず精力的だったシーマが、一気に老け込んでしまいました。
あまり外に行かず、一日中家の中。定位置のストーブの前から離れずに、じっとしている。
そんな様子が数ヶ月くらい続きました。
やっぱり、彼にとっても弟の死はショックだったんだと思います。
張り合いを無くしてしまったような感じ。
私はシーマに、「弟の分まで元気で生きてよ」とずっと言い続けました。
彼はそれを守ってくれたんでしょうね…13歳まで生きてくれました。
急性腎不全、でした。
4年前の4月。
彼は衰弱し始めました。
それでも、食欲はあったから、始めはそんなに体調が悪いとは思っていませんでした。
それが、5月に入ってから一気に、ほとんど動かない状態になりました。
亡くなる数日前。
それまで寝床から動かなかった彼が、庭の車庫の前に出ているのを見つけました。
その衰弱して痩せた姿を見て、
それでもここまで動いてきた気力があるならもしかしたら、
そう思って、私は彼を病院へ連れて行きました。
結局…輸液をしただけで、もう手の施しようはなかった。
それを認められず、死に向かう彼を見ることができず、私は彼を入院させてしまった。
そして、5月12日。
彼は病院で、ひっそりと息を引き取りました。
きっと、数日前に庭に出てきたのは、死に場所を探しに行くつもりだったんだ。
気付いた時にはもう遅く、彼は嫌いな病院で一人で死にました。
病院に連れて行ったこと、入院させてしまったこと。
間違っていたんです。
シーマは私に、最期にどんな選択をするか、どんな最期を迎えさせたいか、最期から、死から目をそらしては行けないという事を教えてくれました。
シーマ。
ごめんね。
ありがとう。
うぃやりんや、この先私が一緒に暮らす子達の最期のときは、もうこんな間違いをしないから。
4年という月日。
4年前、彼が死んだ日に、傍で慰めてくれた人と電話で話しました。
彼が死んだのはもうずっと昔のような気がしていたけど、こうして当時から付き合いのある人と話していると、
4年なんて短いのかも…と思いました。
今でも、彼のご飯場所だった廊下の一箇所は、板がはげたままになっています。
彼が体を擦り付けていた、廊下の角には黒いシミが。
居間のドアは爪あとだらけ。
ドアの上の鍵はもう使うこともないけれど。
これからもずっと、このまま残しておくでしょう。
すっかり話が長くなってしまいました。
最後に、たった一枚だけ手元に残っているシーマの写真を。
目つき…悪いでしょう(笑
デジカメもカメラ付き携帯も一般的じゃない時代でした。
シーマが死んだ年、高校生だった私が持っていた携帯も、カメラ付きじゃなかったので…彼の写真は本当に少ないです。
それだけが、ちょっと寂しい。
弟猫の話は、またそのうち。